出雲vsタニハ 日本海の主導権争い
シリーズ「ヤマト建国は地形で解ける」⑨
なぜ播磨で紛争が起きたのか
豊岡に拠点を構えたアメノヒボコだが、『播磨国風土記(はりまのくにのふどき)』には、瀬戸内海側で、アメノヒボコが出雲神・アシハラシコオ(葦原志挙乎命)と戦ったという伝承が残されている。
たとえば、揖保(いぼ)郡のこおりの段に、粒丘(いいぼおか)の地名説話がある。
粒丘と名付けられた理由は、アメノヒボコとかかわりがある。アメノヒボコが「韓国(からくに)」から渡来し、宇頭の河口(揖保川)にやってきたとき、アシハラノシコオに、次のように懇願したという。
「あなたは国主(土地の主)なのだから、私に宿る場所を譲ってくれないだろうか」
これに対し、アシハラノシコオは海の中ならばよいと、意地悪をした。すると「客の神=アメノヒボコ」は剣で海原をかき混ぜて波を起こし、その上に座った。
「主の神(渡来系の客の神の反対で、こちらは土着の神であることを強調している)=アシハラノシコオ」はアメノヒボコの武勇を恐れ、先に国を占拠してしまおうと、粒丘に登って食事をした。このとき口から飯粒(粒)が落ちたので、「粒丘」と名付けられたという。この丘の小石は、飯粒に似ているともいう。
また、杖を刺したところ、ここから清水が湧き出て、南北に流れていった……。
同書宍粟(しさわ)郡の段にも、似たような短い話がある。
さらに、宍粟郡の高家(たかや)の里(兵庫県穴栗市山崎町)、同郡御方(みかた)の里(兵庫県穴栗市一宮町)の地名起源説話には、但馬がからんでくる。話はこうだ。
アシハラノシコオがアメノヒボコと黒土の志爾嵩(しにだけ)(兵庫県中央部、朝来市生野町の生野銀山)に至ったとき、おのおの黒葛(つづら)、蔓草(つるくさ)、 三条(みかた)をもって足につけて投げた。
その時、アシハラノシコオの黒葛の一条(ひとかた)は但馬の気多(けた)
の郡(兵庫県豊岡市城崎町)に落ち、一条は夜夫(やぶ)の郡(兵庫県養父市)に落ち、一条はこの村に落ちた。そこで「三条(御方)」という地名になった。いっぽうアメノヒボコの黒葛は、全部但馬国に落ちた。
そこで但馬の伊都志(いづし)(豊岡市出石町)の土地を占めるようになった……。
まだいくつか、アメノヒボコと出雲神の争う伝説が『播磨国風土記』に残されているのだが、なぜ、但馬のアメノヒボコと出雲神が、瀬戸内海側で戦ったのだろう。
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